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カナブン

 私、カナブンです。人間に恋をしたカナブンです。人間に恋をしたカナブンは、泡になって消えるの……なんてことはありません。普通です。
 普通ってどういうことかしら。私は考えました。
 たとえば、ごはんを探して飛んでる時、私は普通なのかしら。ごはんを見つけてスピードを上げるとき、私は普通ではないような気がします。それが三日間ご飯にありつけなかったときであったらよけいに。ああ、ご飯が食べれるのだわ、そんなワクワク感。あのご飯を逃がしてはいけないわ。そんな焦り。ご飯を食べても「おかわりが欲しい!」と思って、さらなる次を求めてしまう無限性。
 そういう意味では、今の私は普通でないとも言えます。恋って、なんだか普通ではないんだわ。
 私の恋の始まりは、あの人の部屋に入ったときからです。もしかしたらもっと前かもしれない。運命って分からないから。生まれる前から、私が彼に恋をすることは決まっていたのかもしれない。でもそれは悲しいな。実らない恋をすることが、生まれる前から決まっていたってことなんだもの。
 彼の部屋に入ったとき、彼はパソコンをしていました。カナブンだってパソコンくらい分かります。それくらい分からないと、現代社会についていけないもの。現代社会の速度は、餌を目指して飛ぶカナブンよりずっと速いんです。銃弾よりも、もっともっと。ピエール・ルーソーは「戦前派の上品さとは、速度の棚卸しをすることだ」といって、戦後どんどん加速していく社会を嘆いてそうです。それにしても速度の棚卸しって意味分からない。ルーソーがこれを書いたとき、ちょっと酔ってたのかも。ともかく速いんです。
 その人はパソコンでチャットをしていて、「エレキ」と名乗っていました。電気という意味でしょうか。私にとって雷撃のようなあの人を表すのに、これほどの言葉は無いように思います。ちょうど画面から「エレキブレンディ」という文字が表示されていたので、それが本名かもしれません。あ、カナブンがチャットとかを知ってるだなんていわないでくださいね。カナブンだって現代社会に……ってこれはもういいか。ともかく、細かいことは言わないでください。私が、エレキブレンディさんに恋をしている。それが大切なんです。ああ、エレキブレンディさん。
 私はそのとき、足を折っていました。足なんてあっけなく折れてしまう。安倍政権みたいに。ざぶとん三枚しいたって、痛みはどうしようもないでしょう。ざぶとんとは関係無しに痛いからです。私、さっきから無意味なことばっかり考えてるわ。恋だから仕方ない。そう考えて、自分を納得させるの。
 私の足を見て、エレキブレンディさんは私をそっと両手で包みます。
 そして言いました。
「死人に口なし」
 仮に私の脈拍を、一本の線で表すとします。縦軸が鼓動のゆれ、横軸が時間です。するとその軌道は緩やかなサインカーブを描き鼓動を表現するのですが。彼の一言で、私の鼓動はz軸を作りレベル上げて、新しい世界を創造しました。それは、なにか、私に知能をもたらしたのもそれかもしれませんが、新しい、たぶん新しい刺激でした。怖い? 違う。それは……いいえやめましょう。そのとき私が感じた感情を表す日本語は存在しません。脈拍のz軸が増えた。これ以上にあのときの感覚に近似した表現はないでしょう。人類が新しい境地にはいりこれを的確に表現する言葉を開発できたとき、私はこの部分を訂正します。
 気がつくと私は、夜の虚空を漂っていました。それは暗くて……寂しかったのです。私は寂しさに初めて涙しました。そう、信じられないことに泣いていたのです。夜は怖くて、それは寂しくて怖かったのです。私の複眼は、上下前後のほとんどの角度をほぼ死角なく捕らえていました。そして、私の周りに誰もいないことを、視覚は教えてくれます。両手に包まれていたとき、私はなんと幸福だったでしょうか。あの場所は、寂しい場所ではなかった。
 翅は何の為にあるのだろうか。銃は何に使われるのか。交通事故での死亡数はどれくらいか。生物は何故左右対称なのか。私はあらゆることを考えながら夜を飛びました。ゆっくり、ゆっくり飛びました。速度をどこに落としてきたのかしら。棚の下かしら。そんなことを考えながら飛びました。
 運命が生まれる前から決まっているのならば、生まれる前から分かれも決まっているのかしら。
 少なくとも、エレキブレンディさんの部屋の窓は閉まっていて、ガラス越しに彼がチャットをしているのは分かりました。私はガラスを隔てて夜の中にいるのです。
 人間に恋をしたカナブンは、泡になって消えることはありません。消えることがないだなんて、なんて不幸せでしょうか。あの人にとって、私はとうに闇に消えている存在なのに。


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