『そして一週間後、私は自殺した。』 父の残した日記はそこで終わっていたが、その最後の付け足したような一文はどうにも腑に落ちなかった。それまでの文章が一週間後に、死ぬ事を思い書いた文章だとは思えないのだ。 『足繁く通っても良い』? はたしてそれは一週間後に、死ぬ事を思い書いた文章だろうか。 私はは確信している。 父はこの日記を書いた時に、死を考えてなどいなかった。20年あったのだ。私を生む前、私を生んだすぐ後に母が死んだとき。自殺のできうる時期はいくらでもあった。だが父はそれを乗り越えてきた。それまで母と一緒に二人で出ていたと言う漁にたった一人で出かけるとき、どれだけ寂しかっただろうか。父はまるで忘れたかのように、私にすらほとんど母の話しをしなかった。 きっと。きっと最後の一文は、父でない誰かが付け足したのだ。日記をめくれば、文字など簡単に拾い集める事が出来る。 遺書もあった。だが私はそこに書かれていた、三文ドラマにありそうな自殺の動機など信じていない。 父は、誰かに殺されたのだ。 日記を読んで思っていたよりも、そのレストランは大きかった。扉の鈴を鳴らして店内に入ると、その品の良い内装に、場違いではないかと足を止めてしまう。しかし踵を返す前にウェイターの一人が駆けつけてきた。 「店長さんにお会いしたのですが」 店長とは知り合いで、ちょっと訪ねたのですが。そう言うとやっと、ウェイターはことづてを頼まれてくれた。ちょっと気になり彼を引きとめ「ところで、二週間前ほどマナーの悪いお客さんがきませんでした? お皿に口をつけたり」と聞いてみたが、知らないようだった。 やってきたのは、丁度私の倍くらいの年の頃だろうか。今でこそ多少脂っこいが、昔は屈強な男だったのだろうと思わされる体格をしてる。 「どなた様でしょうか?」 私は父の名前を継げた。彼の顔色がさっと変わるのを、私は見た。 客間に誘われたが、私は警戒して店内の一角でよいと言った。折角なので何か注文しようと思いつき、ウミガメのスープを頼もうと思ったが、やはりそれはさすがに途惑われ結局イカ墨スパゲッティを選ぶ。 訪れた要件を尋ねられ、私は父の日記を差し出した。 彼は素早くそれに目を通し、 「この日記には、昔あった事がすべて書かれているようですね。無論直接的にではないですが」 向かいに座る私にまで届く大きなため息を彼は吐く。 「何かお聞きに来られたのですか? しかし私はそれに答えたくはない」 腰を上げ足早に席を立ち去ろうとするあいつに、私は言ってやった。 「何も言わずに逃げる気ですか。父は死にました」 彼は振り返って、その視線はウロウロと、動揺しているようだった。 「あなたが、父を殺したのですね。過去を消す為に」 空気が、ぴんと張り詰めるようだった、と思ったのはわしだけだったようだ。それを聞いて、彼は一瞬あっけにとられ、そしてすぐに心外だ、とんでもないと彼は首を振った。まるで本当に思いもよらない質問だったかのように。 「私どもは確かにあのとき肉を貪りました。しかし今になって、それ以上の罪を重ねようとは思いません」 結局イカスミスパゲティすらも食べれず私はあの店を出た。もう二度と行く気はない。 もう手詰まりだ。私はおのれの無力さにあきれた。私は、あの父が自殺するわけないと思い込みたかっただけなのだろうか。そう言われれば、あの最後の一文だって父の字に違いないように思えてきた。レストランでの事を書き、一週間後のそのときにこの世に足跡を残そうと気紛れに書きなぐったのかもしれない。文字が震えていたのも、死を直前にして当然の事で。そもそも他人が書いたものだとしたら、自殺を調査した警察がそれを見破れないなんて思えないではないか。 無駄な足掻きだったかと、私は父の日記を見た。これが見納めだ。こんな呪われた日記など燃やしてしまおう。 もう何度も読んだ文章を流し見る。 ふと、違和感を感じた。なんだろうと、また初めから読み直す。そして、その正体に気付いた。 冒頭部分の『仲間の一人が船を下りて』。 つまりこれは、店長の事をさしているのだと思う。だが。 まるでこれは、「船を下り」れる仲間がまだ他にもいるようではないか? 漁師仲間ということなのかもしれない。しかし一度誰かとともに死を乗り越えた父が言う仲間が、あの遭難したときの仲間以外であるとは私は思えなかった。だが、生きた人間が二人しか居ない状態で、このような言い回しを使うだろうか。 たしかに船に乗ったとき、仲間は沢山いたのだろう。しかし、文脈から察するに、遭難し極限状態に陥ったとき、その仲間たちは「ウミガメのスープ」に変わった。それはいい。そうしなければ、そもそも私は生れなかったかもしれないのだ。私に父やあの店長を咎める事は出来ない。 父が「仲間」というべき人間が他にいた? しかしあとで、『生き残ったのは二人』とウェイターに言っているではないか。これはなんだろう。他にいた人間を、忘れたかったのか? 人に言うには潜在的に憚られ、その人の存在をつい隠してしまったのか? はっ、なんだそれは。 だが私は、不幸にも、そのとき閃いてしまった。 いるではないか。漁をしていて、父が忘れようとしている人間。父が人に、私にすら言いたくなかったこと。遭難。極限状態。夜の冬はさぞかし寒かっただろう。 もしも、母が、あのとき船の上にいたら。女一人と、男二人。 私は、何を考えているんだと、私にぞっとした。 「肉を貪ったのです」 先ほど店で聞いた言葉が蘇えってくる。 そうしなければ、そもそも私は生れなかった? 私は自分で思考を思い出し、再び背筋を振るわせる。汚らわしいと、日記を地面にたたきつけた。踏んで、踏んで、踏んで、けりつけた。いかに極限状態であっても、許される事のはずないではないか。 怒りと、悔しさに、胸が込上げる。 頬を滑り落ちた水滴が、唇の端に触れた。塩辛かった。 レストランで頼みはしなかったが、きっとこの味はウミガメのスープ。 私の身体に刻まれた、海の記憶だ。 |
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