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ワンとは鳴かない


 目をつぶり床に寝そべっていると、遠くから床の軋みむかすかな振動が伝わってきた。柿句恵子がこのおんぼろアパートの階段を登っているのだろう。家賃が安いとはいえ、彼女はなぜもう少しましな住まいを探さなかったのか。おかげで、床が抜けるのことを恐れて忍び足で歩く癖がついてしまった。ネズミやゴキブリが走り回っていることもある。彼女が見る前にそれらを駆除するのも私の密かな役目だった。彼女が悲鳴をあげれば、薄い壁越しにアパート中に響き渡るだろう。
 柿句恵子の足音が「トントン」と地面を通して伝わってくる。私にしか分からないだろうが、いまにも宙返りをしそうなほど軽やかな足取りだ。アルバイト先で、何かいいことがあったのだろう。少しずつ足音が大きくなり、この部屋の前で足音がとまった。ドアが開く前に私はコタツのスイッチを入れる。寒い外から帰ってきて、冷たいコタツに入らせるのはかわいそうだ。
「ただいま、ドッ君」
 彼女らしい押し殺した低い声。私は呼ばれた名前を聞きたくなかったので、「ド」のあたりでさっと両前足で耳をふさぐ。拾われた身で文句を言うものではないかもしれないが、彼女のネーミングセンスは最悪だ。犬で、ドッグだからドッグ君なのだそうだ。さらに、いいにくいからドッ君。「君」を抜かせば、私の名前は「ドッ」ということになる。何かに名前をつけて分類する能力を知性と呼ぶのなら、彼女にはそれが欠如しているといわざる得ない。安易な名前をつけられた仕返しに、私は彼女のことをフルネームで呼ぶ。柿句恵子。かきくけこ。この名前をつけた彼女の親も、ネーミングセンスは最悪だ。
「今日」
 柿句恵子が低い声で呟いた。聞き取りにくいぼそぼそとした喋り方。おかげで私は生まれつきの鼻のよさ意外に、耳も優秀になった。
 同居者として、話しかけられたら返事くらいはしておいたほうがいいだろう。私は「ワン」と小さく鳴いた。
「いつもくるお客さんに、二人で遊びに行かないかって誘われちゃった」
 持って帰ってきた紙袋を漁りながら柿句恵子は言った。紙がこすれるがさがさとした音は、私の聴力にとって心地よい音量ではなかったが、彼女の言葉ははっきりと聞き取れた。柿句恵子は、バイト先から貰ってきたフランスパンを取り出しキッチンでサンドイッチを作ってくる。鼻歌が聞こえた。その客にどんな返事をしたかは、あの様子から一目瞭然だった。髭の先が物にこすれるような、嫌な感覚がする。私はその気持ちに「嫉妬」と名付けて、心の隅にしまった。
「はい、ドッ君ごはん」
 目の前の床に皿が置かれた。今日の夕飯はパンとハムとレタスのを細かくしたミックス。材料だけなら柿句恵子と同じ夕飯だ。いつもならばコタツの傍で彼女と同じ時間に食べ終わるようにゆっくりと食事するのだが、今日は素早く夕飯を平らげた。それから、彼女が持って帰ってきた紙袋に近づく。
「ごめん。おかわりの分は無いの」
 後ろで柿句恵子が申し訳なさそうに言ったが、私の目的はおかわりではない。一人暮らしのフリーターにおかわりを要求するほど、私は無神経ではないつもりだ。
 紙袋は彼女の言うとおり何も入っていなかったが、横倒しにするとパンカスと一緒に紙切れが出てきた。なにやら書いてあるが残念なことに、知性的な私だが人間の文字までは読めない。しかし、多分彼女の言う客に渡された連絡先か何かだろう、という予測は立てられた。鼻を近づければ、確かにパンや柿句恵子の匂いのほかに、男の臭いがした。
「あ、ドッ君。なにやってるの」
 コタツ布団から首だけ出して、リビングから柿句恵子が私を叱った。しかし目はもううとうとと眠そうにしている。私はコタツの傍に戻り、彼女の傍に寝そべった。柿句恵子の手が私の毛をかき分けて背中を撫でる。
「あったかいなあ」
 彼女の心地よい低い声を聞きながら、鼻の先で彼女の額をつつき目を瞑る。
 私は頭の中に分類してある単語を思い浮かべる。柿句恵子。パン。こたつ。これらは私にとっていいものにつけられた名前だ。
 対して、このアパートの床、ドッ君と言う名前は、私を不安にさせる嫌なものとして分類される名前だ。私はこのリストに、柿句恵子の店に来る客の男を付け加えた。「客」というのでは曖昧でうまく像が浮かばない。具体的な名前を知ることが必要だ。臭いに具体的な名前はつけられない。
 柿句恵子がすやすやと寝息を立て始めた。私はそっと起き上がり、コタツの上に投げ出してある部屋の鍵を咥えた。玄関の扉を開け、外に出る。私の中にある分類では、鍵とは中に大切な物をしまい、他の誰かに盗まれないようにする為の道具だと意味づけられている。むろん具体的な使い方も知っている。とっくに日は落ちていたが、鍵穴ははっきりと見える。振り向き見上げると、満月が十分に道を照らしていた。私のような者が外をうろつくにはうってつけだ。私はそっとドアに鍵をかけた。
 柿句恵子のバイト先までは、彼女の臭いをたどれば行き着ける。そこから先は、覚えた男の臭いを追うのだ。ぼろアパートの足音を聞き分けるより簡単だ。

 窓ガラスの向うで、男が二人酒盛りをしている。二人の会話から、片方がタク、もう一人がケンジだと分かった。話は盛り上がっていたが、私が興味を持てないような下らない話ばかりだった。女と、酒と、金儲け。話題を大体に分類するとこの三つになる。どれも知的ではない。柿句恵子と会ったのがどちらかは分からないが、どちらであっても相応しくはないなと私は思う。
「女といえば、また一人釣れた」
「へえ、今度はどんな女」
「近くのパン屋で働いてる女。なかなか可愛い顔のくせに、うぶっぽくてさ。荒れは絶対処女だぜ」
 しばらく話に耳を済ませていたら、その会話が聞こえた。そこから先は、柿句恵子をおもちゃかなにかと思っているのだろうかと、背中の毛が逆立つような話が続いた。「憤怒」と名付けて、私はソレを頭にしまわず、爪のあたりにこの感情を篭めた。
 前足、いや手を窓ガラスに当て、少し力をこめると簡単にひび割れて砕けた。この二人のどちらがタクとケンジなのか分からないが、どちらでもいいだろう。二人まとめて駆除すべきものと分類すればいい。部屋から放り出すネズミやゴキブリの名前など、いちいち気にしないのと同じだ。
「なんだお前!」
 と片方が言った。私はどう返事をすべきか考える。彼らに私をどう分類させれば、柿句恵子に二度と近づかないか。
 答えはすぐに出る。
「パン屋の店員の、兄だよ」
 後は彼らに、痛い目にあわせればそれで済む。
 夜が明けるまえに、私はひっそり家に帰った。柿句恵子は安らかに寝ていた。

 夜更かしをしたせいで、昼を過ぎてもまだ眠い。
 床に寝そべっているとアパートの階段を登る柿句恵子の足音が伝わってきた。「トントン」私にしか分からないが、これは相当気を落としている足音だ。後ろにもう一人分、足音がある。少し不安になったが、大丈夫。この軽い音からすると、おそらく女の足音だ。コタツのスイッチをつけ、寒かったのでついでに下半身だけ私は入り込んだ。
「ただいま、ド」
 私は安易で不名誉な名前を呼ばれる前に、前足で耳をふさいだ。
「よー、元気してるかい。ひさしぶり」
 柿句恵子のあとに入ってきたのは、友人の巳山冴香だった。柿句恵子が持っているスーパーの袋は夕食の食材だろうか。私と柿句恵子の分だけにしては多い。巳山冴香も食べていくのだろう。
「一晩お邪魔するよ」
 巳山冴香が私の頭を撫でて言った。
「恵子の失恋パーティでね」
「冴香。あてつけてるでしょ」
 レジ袋から食材や酒の缶を冷蔵庫にしまってきた柿句恵子が、口を尖らせながらコタツに入る。
「そんなことないよ。ふられたっていいじゃない。男はみんな狼よ。恵子みたいな可愛い子は狼男に気をつけないと」
 冗談を言うような口ぶりで巳山冴香が笑った。ちらりと彼女を見ると、ちらちらと私を見ている。明らかに面白がっている風だ。
「可愛くなんてないよ。いつもデートとかする前に振られちゃうんだよ。会いたくないって。何回目だろう」
 私はそちらをあえて見ないようにしていたが、柿句恵子の声は涙ぐんでいた。気まずくかんじ台所のほうへ逃げようとコタツから出かけると、コタツ布団の中でシッポがぎゅっと握られて、去るのを遮られた。巳山冴香の手だ。
 柿句恵子が手洗いにに立ったとき巳山冴香がボソリと呟いた。
「甘やかしすぎよ、誰かさん」
「余計なお世話だ、蛇女」
 睨みを利かせると、彼女は「ひゃーこわい」と舌をちろちろとさせる。下から見上げる角度でなら分かるが、口の奥に鋭い歯が見えた。
 柿句恵子がもどってきたらこのやり取りはおしまいだ。お互い、正体を明かすわけにはいかない。
 涙を拭いて、落ち着いてきたのだろう。足取りは少し軽くなっていた。
「あ、忘れてた。ごめんね。今ご飯用意するから」
 柿句恵子が私の頭を撫でた。
「しばらくはまた、恋人はドッ君だなぁ」
 その言葉は耳をふさげなかった。どう分類していいか分からない感情が、しっぽや耳や髭の先で沸き起こる。冗談で言っているのはもちろん分かっているのだが。巳山冴香が私の心情を見抜いてくすくすと笑っている。
「今日は奮発して美味しいもの買ってきたからね、ドッ君」
 しかしなんとかして、彼女の中の分類を改めることは出来ないだろうか。私は犬ではなくて狼なのだが。


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