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SENTO

 白い湯気。湯の水面が波立つ音。タイル張りの床。団欒にいそしむ話し声。そして何より、壁に大きく書かれた富士山の絵が、ここがいかなる場所なのかを十分に物語っていた。銭湯である。しかし、団欒に混る緩やかな緊張が、ここがただの銭湯ではないことを物語っていた。三年に一度、各地から一流の銭湯人が集まる催し。銭湯人にとって、いや全ての風呂を愛する風呂人にとっての憧れの集いであり、約束の地。それがK市で定期的に開かれる『富士会』なのである。
 ここ数十年の話題は、銭湯ドーナッツ化減少であった。地方の温泉ばかりに人が集まり、街の銭湯は閑散としてくばかり。歴史や名のある銭湯は姿を消していく。前回の集いではスーパー銭湯を銭湯と認めるべきかどうかの熱い物議が開かれた。銭湯を過剰なまでに愛し、銭湯の将来を憂う世捨て人たちが、文字通り裸の付き合いを通して語り合うのだ。
 熱い湯に浸かりながら(銭湯人は熱い湯を好み、断りもなく水で湯を薄めれば埋太郎と呼ばれ嫌われた)、大湯船(主湯とも言う)の一番奥に居る重鎮らしき老人が口を開いた。
「このなかに、にわか銭湯人がいる」
 湯に浸かる者、体を洗っている者、水風呂に使っている者。三者三様の場所で思い思いに話し合っていた彼らが、重鎮の一言に会話をぴたりと止めた。長老とも、また湯船と掛けて船長とも呼ばれる男である。
「一人ではない。少なくとも三人」
 ざわざわと風呂の中が騒然となる。
「うち一人については、怪しんでいる者も多いのではないだろう。彼は脱衣所から風呂場に入るときに前をタオルでいた」
 何人かが納得の溜息をついた。
「裸の付き合いをしようというのに、前を隠すとは言語道断。さらにその者は、体を流した後、あろうことかいきなり岡湯に浸かりおった」
 岡湯とは大湯船のすぐ脇にある小さい浴槽のことだ。「あがり湯」とも呼ばれるこの湯船は、文字通り風呂から上がる際に浸かるための湯船で、大湯船よりも綺麗なお湯が張ってあるのである。その湯船に、風呂場に入ってきて早々浸かるという行為は、銭湯人達にとって到底許せることではなかった。
「なるほど。若い者が型にはまった行動を嫌う気持ちは分かる。わしもかつては若かった。しかし。しかしじゃ。何事の道も守破離の順序というものがある。すなわち、型を守り、型を破り、型から離れるという道筋じゃ。型を破るにもまずは、型を知らねばならぬ。型がなぜあるのかという心を学ばねばならなぬ。銭湯とは何か、銭湯に何を感じ、何を考えればいいのか。その心もない小僧はすぐさまここを出るが良い」
 長老の合図とともに、風呂場にいる全員が目を瞑る。そっとこの場から立ち去れという合図であった。
 風呂場の出入り口であるガラス戸がガラガラと開く音がし、誰かが出て行く気配があった。もう目を開けて良いじゃろうと長老が言う。
「次のにわか銭湯人は、あろうことか、あろうことかじゃ」
 長老がくわっと目を見開く。
「酸素風呂は気持ちが良いと抜かしおった」
 あちらこちらで憤りを表現する唸り声があがった。
「酸素風呂。この言葉を聞くたびに、乱れた言葉に胃がキリキリと痛む」
 長老が叫ぶ。白い湯気に満たされた風呂場に、老人の声が甲高く響いた。
「湯という時にはさんずいがある。湯のない風呂、それはすでに風呂ではない。森林浴という浮かれた言葉も同類じゃ。湯という言葉を、浴びるという概念を曲解させる汚らわしき、にわかのにわか、似非の似非。それが酸素風呂じゃ」
 賛同を示す意見が飛ぶ。老人の指し示した、汚らわしい言葉を発した男が浴槽から引き摺り出された。タイルの上を滑らせるように運ばれ、ガラス戸があけられる。何人もの男達がにわか銭湯人の四肢を掴み、脱衣所を素通りすると銭湯のそとに放り投げた。あとからその男の着替えも放り出される。
 長老の慧眼さを疑うものはもう一人もいなかった。だれも急かす者はいなかったが、誰もが話の続きを聞きたいと耳を潜めている。三人目の男一人を除いた全員が。
「その男は、膝を高く上げて歩いていた」
 この言葉に意味を取れなかった者、或いは早くも合点が言ったように頷く者とまちまちであった。
「つまり、銭湯のタイルは滑りやすく、ときに石鹸などが落ちているものじゃ。このような場所で足を振り上げるようにして歩くとは愚行以外の何物でもない。銭湯人ならば、意識せずともすり足で歩くもの。風呂場での流血沙汰はご法度じゃ。風呂には風呂の歩法がある」
 全てのものが思わず頷いた。
「この男を含め、今わしが挙げた三人の男は誰一人として銭湯人としての心が備わっておらんだ。銭湯を真に思う心があれば自然と身に付くこと、しかしその心が抜け落ちていれば永遠に身に付くことはない。それがこの三人の過ちであった」
 三人目の男は、流しで体を洗っている途中だった。彼は立ち上がると全体に向けて大きく頭を下げて、慎重な足取りで風呂場を出て行った。


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