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青空、灰色になって


 四月一日だ。エイプリルフールだ。ただし、俺を化かそうとする奴はここにはいないだろう。なぜなら俺は今日、この町に引っ越してきたばかり。知り合いはいない。
 小さな駅から降り、寂れた風の商店街を抜ける。ちらほらと和服を着た女性とすれ違う。田舎町だからだろうか。木造の店構えの釣具屋なんてものがるし、店内の薄暗い床屋があった。どれも流行っていなさそうだ。髪を切るのならば大学の近くで店を探したほうがいいかもしれない。商店街を抜けるとアパートや小さな茶畑や大根畑がちらほらとある。田舎町だなというのがこの町に感じた最初の感想だ。公園では老人たちがヘルニアにもまけずにゲートボールにいそしんでいる。電信柱や屋根の上に点々と黒い影が多かった。カラスだ。青いゴミ箱に群がっていたカラスがゴミを漁るのをやめ、近くを通り過ぎリ俺をじっと見てくる。近くで見ると、カラスは大きい。早足に歩くと二十分ほどで引越し先のレオパレスアパートにたどり着く。ほかの古臭いアパートとは違う真白い壁が、この町の風景から浮いていた。玄関の表札に、西野という俺の名前はついていない。まあ近所づきあいなんてするか分からないし、無くても構わないだろう。
 引越し初日なのだが、俺の荷物は大きめのスポーツバッグだけだ。ここ一週間分の着替えと、その他こまごまとした雑用品が入っている。レオパレスのアパートは、家具類がもともと備えついているので、手荷物程度を持ち込めば事足りるのだ。電子レンジにテレビにタンスに、洗濯機やテーブルまでも。中二階のロフトまでついているので天井は高いし、有効スペースも広い。町への第一印象はいまいちだが、住まいへの第一印象はまずまずだ。
 大学の入学式は四月五日。
 今日から四日間は得にすることが無い。入学式前日まで実家にいようかとも思っていたのだが、早めにこの町に来て暮らしに慣れておくのも必要だろう。
 そなえつけの冷蔵庫を開けた。もちろん何も入っていない。さっきの商店街に食事を出来るところはあっただろうか。自慢ではないが、俺は料理はからっきしで包丁もろくに使えない。マクドナルドか松屋が近所にあれば助かるのだが、望みは薄いだろう。電車に乗って四・五駅もいけば大きな街があるのだが、さすがにそこまで足を伸ばすのは面倒くさい。
 結局うろうろと商店街を歩き、食事のできる場所を探した。チェーン店は無いが、個人経営の食堂は思っていたよりも沢山ある。ほとんどが地味でみすぼらしい店構えなのだが、すし屋なんかだとかえって、その飾らないかんじが風格あるように見えるから不思議だ。
 結局、ラーメン屋に入る。カウンターだけの狭い、薄暗い店だった。まだ日も沈みかけの時間であるからだろう。客はいない。俺が店に入ると、カウンターの向うで新聞を読んでいたおじさんがのそのそと立ち上がった。野菜ラーメンを注文すると、手際よくおじさんが調理する。この道何十年のプロの腕前だ、と俺は勝手に想像した。
「おまち」
 湯気を立たせたラーメンが目の前に置かれた。さっぱりとした匂い。塩ベースの白く濁ったスープだ。野菜をよくスープの中に沈めて、俺は先に麺から食べ始める。濃い目の味付けだが、美味い。
「学生さんかい」
 おじさんが言った。最初、話掛けられてる事に気がつかなかったが、この店には俺しかいない。
「はい、今日引っ越してきました」
「そうか、田舎だろう。ここは」
 無愛想な表情だが、話好きなのだろう。店員が客に話しかけるなんて、都会ではまず無い。それもふくめて田舎っぽいなと思う。
「いや、静かで良い町だと思いますよ」
「またまた。最近の若者は、お世辞が達者だ」
 と言いながら、おじさんはフライパンでさっと何かを調理し、動かし俺のまえに皿を置いた。ほくほくの餃子が四つほど置いてある。
「引っ越し祝いのサービスだ」
 ありがたく頂いた。口の中で餃子の出汁が広がる。美味いが、熱い。やけどしそうだ。
 ほくほくと餃子をほおばっていると、
「ここらへんは、カラスが多いだろう」
 とおじさんが聞いてきた。俺は口の中の餃子が熱すぎて飲み込めず、頬を膨らませたまま頷いて答えた。
「奴らには気をつけたほうがいい。ここら辺のカラスは凶暴で、その上賢いからな。一昨年はそのせいで、大工のせがれが街を出て行った」
 出て行った、とは。
「あの馬鹿息子、カラスに石を投げたのさ。それから毎日、カラスの報復を受けたんだよ。何十匹ものカラスが、あの男を見るたびに襲い掛かったりしてさ。十日もたたずに耐えられずに引っ越しちまった」
 それは怖い。時々テレビのワイドショーなんかで取り上げている、カラスの執念深い報復画像を思い出した。くちばしに咥えた石を落としてきたりとかもするらしい。
 ラーメンの代金を払って家に戻る。薄暗くなっていたが、道端にカラスが何匹もたむろしている。よく観察してみると、道行く人たちは誰もが、カラスを意識的に避けて歩いている。人間がカラスを恐れて遠慮するから、ますますカラスはつけ上がるのではないかと思のだが。なんて考えたりしていると、じっと俺を見ているカラスの群れに気付いて驚いたり。まあ、君子危うき似近寄らず。俺もカラスを遠巻きに避けて歩く。カラスがいるからかーえろ、というわけだ。レオパレス付近にはカラスが少ない。きっと白い壁はカラスにとって保護色にならないからだろう、と俺は勝手に解釈する。

 住めば都。六月も過ぎれば、肩の力が抜けてくる。
 カラスの多いこの町も、慣れてしまえばどうってことない。美味いラーメン屋はあるし、暇ならば商店街の本屋で立ち読みするなり、楽器屋に冷やかしに行ったりなんでもある。例の、みすぼらしいが風格のあるすし屋は、気になってはいるもののまだ入ったことが無い。
 大学生活も順調だ。管弦楽団サークルで俺はトロンボーンを吹いているのだが、指揮者の女子と仲良くなり時々二人だけで遊びに行ったりする。まだ友達以上の付き合いにはなってないのだが、夏休みに入る前に告白するつもりだ。向うも俺のことを悪くは思ってないだろう。今週の土曜日に、遠くに遊びに行かないかと誘ったら、了解を得た。土曜日まで五日もある。待ち遠しい。
 浮かれた気分で帰宅する。駅から自転車で帰ってくると、アパートの駐輪場の暗がりにカラスが一匹いた。ちょうど自転車を入れたい場所にいるので、非常に邪魔だ。群れるカラスは怖い。しかし少なければ恐れるに足らず。るんるん気分の俺にはなおさらだ。
 自転車から降りて「しっし」と足を振ってカラスを追い払う。カラスが驚いて後ろに跳びすさるが、別に逃げたりはしない。いつもならば他の自転車をよけて違う場所に自転車をしまうスペースを作るなりするのだろうが、今日は違った。気が大きくなっていた俺は、カラスに石を蹴って小意地に追い払おうとする。動物愛護精神にあふれた俺は、石をカラスに当てるつもりは無かったし、カラスもそれを分かってたのだろう。避けずとも石はカラスには当たらない。石はカラスの隣に立っている自転車に当たっただけだ。
 運悪く、としか言いようが無い。
 そんな強く蹴ったわけではない。当たり所が悪かったのだろう。自転車のスタンドが、石の衝撃で解除される。ガタンと音を立てて、自転車が横にゆっくりと倒れた。カラスも驚いて離れようとするが、間抜けなことに足をもつれされ、コロンと転んだのだ。自転車が倒れる。カラスは慌てて立とうとするが、重力のほうが速かった。
 俺は間抜けに「あ」と言っただけ。自転車のカゴにのしかかられ、カラスが悲鳴を上げた。カラスの左目にハンドルの角がぶつかったような気がする。
 慌てて倒れた自転車を持ち上げると、カゴの下からカラスは慌てて這い出た。危なっかしい足取りで数歩遠ざかり、羽を広げて跳ぶ。しかしバランスが取れなかったのだろう。跳んだと思ったら、すぐに地面にひっくり返るように落ちた。再び立ち上がる。もう一度カラスが羽を広げて飛び上がった。今度は成功して、ばたばたと煩い音を立てながら黒い影が電信柱の上まで飛ぶ。
 羽音が消えたとき、俺は周囲から音が消えていることに気がついた。虫も、風も、息を止めて辺りをうかがっているかのように音を立てない。バサバサと羽音がした。電信柱の上のカラスが増えている。集まってきたのうだろう。振り向けば向かいの電信柱に黒い影が五つ。もう一度振り向けば、向かいに十匹。
 どれも俺を、凝視している。気のせいか、視線には怒りが混じっているような気がした。
「なんなんだ」
 急いで自転車を駐輪所にしまい、二階の部屋に駆け込んだ。

 カーテンは閉まっている。日光はさえぎられ、光の筋が部屋の中に入り込むだけだ。
 しかしカーテン越しに何匹ものカラスが、この部屋を睨んでいる気配がはっきりとした。
 こつこつ。硝子を叩く音がした。カーテンの隙間から覗くと、硝子越しに部屋の中をうかがうカラスと目があった。丸い、無機質な目だ。
 カラスがいっぱいに口を開き、吠えた。「カアアアッ」というよりも「KAAAA」という鋭角の威嚇音だ。
 怖い。カラスは怖い。しかし、俺は夕飯を食べていない。
 カラスを恐れ、外出を控えれば夕飯は食えない。夕飯を食べる為にはカラスを乗り越えなければならない。そもそも、あの自転車置き場にいたカラスが、あんなところにいたのがいけない。俺に罪はない。カラス達はそこのところを分かるべきだ。
 俺は外出する覚悟を決め、帽子もかぶる。フードつきのコートも羽織った。暑い。もうすぐ夏だぞ。
 しかしカラスから身を守るためには仕方が無い。
 夕飯は例のラーメン屋に行こう。家からラーメン屋までの最短コースを頭の中で描いた。
「よし」
 掛け声と共に気合をいれ、俺はドアを開いた。オートロックなので、鍵を掛ける手間は無い。階段を駆け下り、駐輪場まで走った。カラス達が俺に気がつき、騒ぎ立てる。自転車の鍵を開け走らせようとすると、硬い手ごたえと共に車輪が回らなかった。
 前輪と後輪に枝が差し込まれている。それが骨組みに引っかかり、回らないのだ。カラスの仕業だろうか。
 俺が手間取っている間に、カラスが飛びかかってきた。俺は持ってきた手提げ鞄を振り回す。中には分厚い本が入っていた。ポケット六法全書だ。法の裁き、というわけではないが、ともかく喰らい。
 鞄にぶつかったぎゃあぎゃあとカラスが悲鳴を上げて地面に落ちる。俺に突撃しようとしていたほかのカラスが怯んだ。その隙にさっと車輪に差し込まれた枝を抜き取り、俺は自転車に曲がった。目指すは商店街。自転車を走らせるとカラス達は俺の周りを飛び回る。黒い塊がびゅんびゅんと視界のなかを行き来する。俺は鞄を振り回しながら走った。
 すれ違う人たちが何事かと目を剥いているのがわかる。商店街を走りぬけ、ラーメン屋の前に来るとドアを最低限だけ手前に開けて、中に滑り込んだ。カラスの侵入を一匹だけ許してしまった。俺はそいつの黒い翼をつかみ、再びドアを開けて外に放り投げた。
「おじちゃん、野菜ラーメンとチャーハンセットで」
 ラーメン屋のおじさんは新聞を広げたまま驚いたように俺を見ていたが、「あ、ああ」と戸惑ったように返事をした。のそのそと椅子から立ち上がりラーメンを作り始める。店内にはまだ誰も客はいない。美味い店なのに、ここはいつも客が少ない。
 耳をドアにつけると、向こう側からカラスの鳴き声が聞こえた。何匹いるのだろう。俺の見たところ、十五はいた。窓硝子のないラーメン屋だったので外が見えないが、鳴き声がだんだんと止んで行くことから、カラスも諦めてどこかに行ったのだろうと察せられた。自転車の車輪に仕掛ける枝を探しに行ったのかもしれない。
 ラーメンを待つ間、これからの対策を考えた。
 まず、身を守る為の物を手に入れなければならない。刃物はダメだ。そんなものを持ち歩いたら警察に捕まる。野球のバットとかはどうだろうか。いや、カラスを追い払うならテニスラケットのほうが、面積が広いぶん有効かもしれない。痴漢対策スプレーとかも効果がありそうだ。投げ網も有効そうだが、かさばるし、一度使ってから回収まで隙が出来るのがよくない。とにかくスポーツ用品店に行こう。
 カラスは病原菌なんかを持ってそうだから、傷はすぐに消毒をしたい。薬局で消毒スプレーなんかも買っておかなければならないだろう。
「おまち」
 ラーメン、チャーハン、餃子が目の前に置かれた。
 はふはふとチャーハンを食べる。戦う為にはまず食事が大切だ。急いで食べる俺を、おじさんは変な物のように見ている。
「何かあったのかい」
「カラスに目をつけられた」
 おじさんは、明らかに驚いたようだった。困ったように頭をかき、哀れむように俺を見た。
「この町から、さっさと出て行ったほうがいいな」
 意外な言葉だった。このおじさんの性格からして、なにか良いお節介をしてくれるに違いないと、俺はどこかで踏んでいたのだ。
「カラスと事を構えたら、この町にはいられない。そのラーメンを食べ終わったら、この店からもさっさと出て行ってくれ。悪いな」
「そんなにカラスが怖いんですか。俺は戦いますよ」
 俺は箸を止めて立ち上がった。しかし、おじさんは取り合おうとしない。
「この町の人間は、みんなカラスを畏れている。そして敬っている。お前がカラスに嫌われたとわかったら、誰もお前と関わりたいとは思わないだろう」
 その目は、嘘を言っていなかった。
 俺は諦めて、無言でラーメンを食べる。
「餞別だ。その飯代はタダで良い。もう二度とこの店に来ないでくれ」
 急いで食べおわり、俺は店から飛び出した。再び襲ってくるカラス達を蹴散らし、スポーツ用品店にも薬局にも行かず、一目散に家に帰った。

 家から大学に行くのさえ一苦労だ。自転車の車輪から枝を抜き、カラスに襲われながら駅まで飛ばす。電車のプラットホームでもカラス達は絶えず襲い続けてくる。助けてくれる人なんていない。みんな遠巻きに俺を見ていた。周りを飛ぶカラス達に鞄を振り回し、電車の中に入り込む。さすがにそれ以上追ってくるカラスはいない。電車から降りるときはおっかなびっくりだったが、カラスは襲ってこなかった。
 授業は一時間目だけ休み、薬局で傷薬や消毒液などを買った。大学はなんて気の休まる場所なんだろうと思いながら授業を受ける。食堂でラーメンを頼んでも、拒否されることは無い。ただし味の程度は低いが。
「西野君、元気ないね」
 一緒に食べていた黒須月子が俺を気遣わしそうに見ている。俺のサークルの指揮者、一年生代表だ。
「朝から色々大変でさ」
 と言葉を濁した。カラスに目をつけられたといったら彼女は信じるだろうか。よくよく考えれば、カラスを信仰しているとも言えそうなあの町は、異常だ。
「顔とかに痣とかもできてるしさあ。心配してるんだよ」
 眉間を狭くして睨んでくるが、それも俺の身を案じてのことだと思うと心が緩んだ。昨日からずっと殺伐としていた気持ちが優しくほぐされるようだ。
「ありがとう」
 俺は黒須さんの頭を撫でた。髪なのに、暖かなぬくもりが掌に広がる。楽しそうに彼女は笑った。
 冷静になれば、あの町に固執する必要なんてないのだ。さっさと引っ越してしまえば良い。レオパレスは年間契約で部屋を取るために、一年分の決して少ない家賃が無駄になってしまうが、それでも毎日カラスに襲われるよりはましだろう。引っ越して二ヶ月ほどしかたっていない為に、部屋の私物も少ない。引越しのときのスポーツバッグに必要なものは入りきるだろう。
 俺は住居をかえることを決めた。あと一回だけ家に戻り、あそこにはもう戻らない。それがいい。夜になるのを待ってあそこに戻れば良い。頭の良いカラスといえども、鳥目で夜は飛びまわれないだろう。

 日が沈んでから、電車に乗った。それまで一緒に黒須さんと居たかったが、彼女の家は親が門限を厳しく決めているらしいのだ。いまどき珍しい。
 駅を降り自転車に乗ろうとすると案の定、車輪に枝が刺さっていた。一本二本ではなく、何十本も刺さっている。執拗なやり方だ。座席はくちばしか何かで何度も突き刺したのだろう。中のスポンジが飛び出ていた。ハンドルの取っ手が月明かりに照らされ、白ぽくないっている。たぶん、カラスの糞だろう。まだ乾ききっていない。泣きたくなった。商店街はどこもとっくに閉店している。自転車をどうしようか迷ったが、歩いても三十分程度の道だ。もうこの自転車はいらないだろう。
 徒歩で家まで帰る。警戒はしたがカラスが襲ってきたりはしなかった。ドアノブがカラスの糞まみれになっているのは気にしないで部屋の中に入る。
 玄関からはまっすぐの廊下が三メートルほど在り、すぐ居間に入れる。途中にある水場で念入りに手を洗った。ふと、風の流れに気がついた。手を拭きながら、嫌な予感がした。居間のほうを覗く。暗い部屋の中で、カーテンが内側に向かって揺れていた。多分、窓が開いているのだろう。緊張で、手を拭く動きが止まった。
 カラスの仕業なのか。俺は考えた。朝、出かけていくときには確かに窓は閉まっていた。カラスに見張られていたのだ。窓を開けて外に出ようとは思わない。しかし、窓に鍵はかかっていただろうか。玄関とは違い、窓にはオートロックはついていない。
 部屋の中が荒らされたかもしれない。カラスが待ち構えているかもしれない。俺は恐ろしくて居間に足を踏み入れるのに躊躇した。
「西野様ですね。お帰りなさいませ」
 居間の中から透き通るような声がした。女の声色だった。
「だれ、だ」
 言ってから俺は、喉がからからなことに気がついた。居間の中に踏み入れる。廊下からは見えない位置に、和服姿の女が正座していた。肩ほどまで、ながれるような滑らかな黒髪。まっすぐな目が俺を見ていたが、左目には眼帯をしている。若い。和服で大人っぽく見えているだろうことを考慮すると、おそらく俺と同じくらいの年齢だろうか。
 手探りで部屋の明りをともすスイッチを入れる。女の和服は黒調の色合いだった。喪服を連想し、俺の緊張は高まる。
「大変申し訳ありませんでした」
 女が深々とお辞儀をした。部屋に無断で入っていることに対する謝辞だろうか。
 しかし、次の言葉に俺は息を呑む。
「私ども、カラスがあなたを襲うことはもう致しません。ご迷惑をおかけしました」
 混乱。
 つまりこういうことか。この女はカラスの仲間で、カラスを代表して俺に謝っているいるのか。もう俺を襲わないと。まったく意味が分からない。
「説明してくれよ」
 出てきた言葉がそれだった。
 女は凛とした態度で「はい」と答える。
「そうですね。まず、私が何者なのかをご理解いただくのが早いかと思います」
 彼女は正座の姿勢から滑らかに、音も無く立ち上がる。そして、ぴょん、と飛び跳ねた。バサバサと翼が羽ばたく音がする。レオパレスの高い天井を飛び回る黒い影が一匹。カラスがいた。あの女は、何処にもいない。
 俺が言葉を失っていると、カラスが地面に舞い降りた。と思うと、そこに立っていたのは先ほどの女だった。
 彼女は何も言わず、右目だけで俺を見る。俺も何も言えず、両目で彼女を見た。
 女が膝を折りたたんで、再び正座した。
「私はアイムと申します」
 そして左手を持ち上げ、左目の眼帯の上を優しくなぞった。
「分かりませんか。あなたには一度、お会いしているのですが」
「え、知らな、」
 言いかけて、閃いた。左目に傷を負ったカラスを俺は知っている。俺がカラス達に狙われる原因になったカラス。駐輪場で、倒れる自転車の下敷きになったカラス。左目をハンドルにぶつけていた。
「体のほかの部分に支障はありませんでした。翼は打撲だけで済み、今ではさほど痛くありません。しかし」
 女が眼帯を撫でる。心なしか、悲しそうな顔。
「左目はもう、つぶれてしまって」
 治りません。女が言った。
 息が詰まるような感覚を味わった。先ほどとは違う意味で、俺は言葉を失う。目を潰した。俺のせいで。ずっしりと胸に鉛がつまるような想いを味わった。
「私の父や兄は怒り狂うようでして。あなたを殺すように命令を出しました。私の父は、その、私達の世界では権威のある立場でしたので」
 着物の女は、すらすらととんでもないことを言った。殺す、とは。
「しかし、この目のことは、事故です」
 あれは事故だ。その意見には賛成だ。しかしそういう彼女はそうは思っていない。俺は直感的に分かった。
「でも、あなたも、あのことを恨んでいますね」
 負い目が、俺に敬語を使わせる。彼女は、俺の言葉にはっとして口を一文字につぐんだ。右目が潤む。
 いや、違うだろ。俺は気がついた。最初に言うべきなのはこんな言葉ではないはずだ。俺は姿勢を改め、正座した。信じられない出来事ではある。しかし、
「その。こちら申し訳ありませんでした」
 深く、頭を下げる。得体の知れないこの人に、距離をとってはあったが、しかし俺は頭を下げるべきだと思った。
「いいんです」
 搾り出すように女が言った。「よくないんだな」と俺は彼女の心中を悟る。本当は俺が許せないだろう。もし俺が目を潰されたら、事故であっても相手が許せないだろうし。その気持ちはわかる。
 しばらく、俺たちは何も喋らなかった。
「私達の一族は」
 気まずさに負け、お茶を用意しようかと考え始めた頃、彼女が口を開いた。
「一族の女のごく一部の者は、人間に化ける力をもっています」
「はあ」
 話の趣旨が分からず、つい俺は気のない返事をしてしまった。
「この地方には昔から、物の怪と呼ばれる者と人間が結ばれる逸話が数多く残っております」
 ますます、彼女の話が分からなくなる。
「私は、とある方に相談いたしまして。どうにかあなたを殺すことを、父たちに思い留まらせることは出来ないかと知恵を頂きました」
 やっと、俺にも分かる話になった。
「その方はおっしゃいました。あなたが責任を取れば、父たちも納得するだろうと」
 責任をとるか。例えば、彼女の目を治すための治療費をだすとかだろうか。
「あるいは、私を人質の変わりになればよいのだと」
 つまり、どういうことだ。
「私を」
 彼女の右目がまっすぐ俺を見た。いや、眼帯の奥にある左目も俺を見ているのかもしれない。
「お嫁に貰ってください」
 思考停止。

 中二階のロフトで、和服の女が寝ている。床に寝そべっている俺には見えない。カラスの姿で寝ているのか、人間の姿で寝ているのかは不明。確かめに行く度胸は俺には無い。
 今夜中に荷物をまとめ、この町を出て行くつもりだったが、彼女に制止された。逃げれば彼女の父親や兄弟が黙っていないだろう。地の果てまで追いかけてくるだろう。自分が傍にいる間は襲わないようにと交渉してある。そう言われたのだ。
 よく考えろ、俺。これは脅迫結婚じゃないか。あの女に手を出したら負けだ。さらに引き下がれなくなるぞ。気にするな。気にするな。そういえば和服のまま寝たりしたら、しわになっちゃって良くないんじゃないのか。黒い和服だからしわになっても目立たないとかか。いやいや、想像しちゃダメだ。だめだ。
 落ち着かない気持ちを、屈伸して静める。静まなかった。
 落ち着かない気持ちを、腕立て伏せ百回で静める。無理だった。
 腹筋やスクワットやシャドーボクシングなんかをして、がんばる。
 朝になった。

「西野君、今日は眠そうだね」
 そういう黒須さんに、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 いや、あの女と何かがあったわけではない。俺は黒須さん一筋だ。土曜日にデートの予定も入れている。そこで告白するつもりだ。しかし、今のこんな状況の俺が、彼女に告白なんてしてもいいのだろうか。
 昨夜はシャドーボクシングで疲れ、いつの間にか眠ってしまった。朝、あの女に起され、一緒に駅まで歩いて向かう。カラスは襲ってこなかったし、和服の女性と歩く俺を、商店街の人々は奇天烈なものを見る目つきで見ていた。
「はは、昨日は遅くまでマンガ読んでてさ。気がついたら朝になってた」
 と俺は嘘をつく。なんて情けない気持ちなのだろう。
 今日はサークルの楽器合わせがあったのだが、押し寄せる睡魔のせいで満足に活動できる自身がない。体調不良を理由に家に帰った。
 家に帰ると、あの女が「おかえりなさいませ」と出迎える。そんなのも気にならなった。ふらふらとロフトに上がり、布団の中にもぐりこむ。一秒もかからず、夢の中に落ちた。
 どんな夢を見ただろうか。カラスが、例の女に変身する夢を見た。変身した女はカラスの体毛に覆われている。「ご飯を作りましたよ」と茶碗を出された。見ると、生きたミミズがいっぱいうごめいている。
 目を覚ますと、隣には眼帯をした女が寝ていた。すやすやと寝息を立てている。本当に元はカラスなのかと思って頬を撫でた。滑らかな手触り。
 はっと我に返り、自分がしたことに赤面した。ロフトから転げ落ちるように降りて、シャワーを浴びる。服を着替えてから時間を見ると、まだ午前五時。カーテンを明けると外はうっすら明るい。鼻下を触ると、無精ヒゲがでている。そったほうがいいだろう。
「もうお出かけですか」
 ロフトから彼女が首を出した。俺は何も言わずに、上着を着る。
「駅までお見送りします」
「いらない」
 俺は答えた。気のない答えにも彼女は気にせず、
「今日はお早いですね。何かあるんですか」
「なにもない」
「昨日は何も召し上がらなかったですが、大丈夫ですか」
「どこかで適当に食べる」
 俺は多分、いらいらしている。彼女にではなく。彼女に心を許してしまいそうになっている自分に。とにかく彼女を拒否しよう。そう自分に言い聞かせる。
「私もご一緒してかまいませんか」
 ふと見た夢がまぶたの裏に蘇った。そして、彼女を拒否しようとする心構えが、俺にとんでもないことを言わせた。
「カラスは病原菌とか持ってそうだから、そういう所には入らないほうがいい」
 言ってから、しまったと思った。彼女の答えが返ってくるのに間があった。
「そうですね」
 眼帯の彼女は、物悲しそうに微笑んだ。そういうつもりは無いんだと、訂正するタイミングは無かった。
 電車に乗ったが、この時間にはほとんど誰もいない。大学の最寄り駅で降り、松屋でもそもそと朝飯をとる。隣にあの女がいたら、ちょっとは華やかで楽しい食事だったかなと少しだけ思った。
 大学のみんなはいつもと変わらない。
 授業が始まる前、教室で「おはよう」と黒須さんが俺の隣に座った。まだ早い時間で、教室の中の人もまばらだ。黒須さんが俺の耳に口を近づける。
「土曜日、もうすぐだね」
 潜めてはいるがわくわくと弾むような声。土曜日。彼女をデートに誘った日だ。
 俺は精一杯笑顔をつくって「楽しみにしとけよ」と答えた。笑顔を作る。そんなこと、初めてだ。
 大学が終わり、帰宅する。降りた駅でカラスがばたばたと自動販売機の上に降り立つ。
「お前、大学で随分なかのいい女がいるんじゃないか」
 カラスが喋った。あの女かとおもったが、口調が違う。
「妹を悲しませれば」
 本当に鳥なのか。膝から力が抜けそうになるほどの威圧感を向けられた。
「お前を殺す」
 こいつが誰なのかわかった。あの女の、兄か。
 言いたいことを言い切ったのだろう。俺の返事なんて待たず、彼はバサバサと夕焼けの向うに去っていった。
 足取り重く、家に帰った。

 金曜日。黒須さんの様子がおかしい。俺を避けているような気がする。昼食を食べに行こうと誘ったが、友達と食べに行くとやんわり断られた。帰りも一緒に駅までは帰ろうと言ってあったが、先に帰ってしまう。
 夜、家にいると彼女から電話がかかってきた。
『あの。ごめんなさい』
 泣きそうな彼女の声。
『あなたと付き合っちゃダメだって、お父さんが』
 それだけ言って、彼女は電話を切った。掛けなおそうにも黒須さんは携帯電話を持ってない。
 呆然としていると、部屋の女が、
「どうしました」
 ふつふつと、やりきれない怒りがわいてきて、腹に溜まっていく。
「あの」
 俺の異常を察したのか、彼女の態度が遠慮がちになる。俺の中で、何かが噴出した。
「お前らか」
 和服の首元をつかみ、彼女を持ち上げた。
「黒須に何かしたのか。何か吹き込んだか」
 苦しそうに女が暴れる。突然手ごたえが軽くなり、眼帯をしたカラスが飛んだ。ロフトの上に飛んで逃げ、恐れるように俺を見ている。そして和服の女の姿にもどった。
「何の話か存じません。どうしたのですか」
 その落ち着き払った態度、慇懃とした話し方が癪に障った。
「出て行け」
 俺は言った。
「襲われようが、殺されようがどうでもいい。出て行け」
「でも」

 で、て、い、け。

 俺は叫んだ。




 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 そう言いながら、彼女は出て行く。窓を開け外に飛ぶと、彼女の体はいつのまにか黒いカラスになり夜空に飛んでいく。鳥目で、しかも片目しかないからだろう。ごつんと電信柱にぶつかって地面に落ちた。動かなくなった。死んだのか、それとも気絶か。
 むしゃくしゃした気持ちが募る。何もうまく行かない。
「くそったれ」
 壁に拳をうちつけて、外に出た。走って、あの女の倒れているところに向かう。カラスがぐったりとアスファルトの上で横たわっていた。抱きかかえると、呼吸をしている気配はする。まだ生きているようだ。
 家につれて帰り頭に氷を当てた。このまま彼女は死ぬかもしれない。そしたら俺も殺されるだろう。もう、知るか。そんな気分だった。
 カラスは異常なほど熱くなり、俺はしかたなく看病する。心のどこかで、さっさと死んでくれればいいと思う俺がいる。しかし解けた氷を取替え、看病する。いつの間にか夜が明けて、カラスの体温は多分普通の体温に戻る。獣医じゃないし、詳しくは知らない。呼吸も多分正常。
 黒須さんとの待ち合わせは、午前十時に大学の最寄り駅で。俺は一睡もしていない。しかし、行くつもりだ。
 九時くらいに、寝たままのカラスのそばに、切ったりんごを置いた。目が覚めれば適当に食うだろう。
 駅に向かう。カラスの群れは特に襲ってこない。電車に乗って、大学の最寄り駅まで向かった。黒須さんは来るだろうか。いたら謝るべきだろう。きっとカラス達になにか嫌がらせを受けたのだろう。俺のせいで迷惑をかけたのだ。
 待ち合わせの場所に、彼女はいた。うつむいていた。
「ごめん」
 俺は言ってから、ちゃんと謝るときは、こうではないなと思い直す。
「ごめんなさい。俺のせいで、迷惑かけたんだね」
 黒須さんがうつむきながら、ふるふると頭を振った。
「カラスに嫌がらせを受けたんだろ。俺があいつらに下手をしたせいで、目をつけられて。本当にすみませんでした」
 深々と、彼女に頭を下げた。
「ちがうの」
 涙ぐんだ黒須さんの声が、頭の上から聞こえた。
「ちがうの」
 また。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
 ぽたぽたと、地面に水滴が落ちる。黒須さんの涙だった。
 何故彼女に謝られるのだろう。俺は分からなかった。
「私、好きな人が出来たって友達に話したの」
 肩を震わせながら、彼女が話し始める。
「そしたら彼女、あなたのことをこっそり見に行くって言って、行って。そこで、そこであなたに怪我をさせられたの」
 混乱。誰のことを話してるんだろう。
「彼女のお父さんやお兄さんがその怪我に怒って、あなたに、迷惑を、」
 途切れ途切れの言葉の最後は聞き取れなかった。嫌な予感。
「彼女、それで私のお父さんに相談して。お父さんはそれで初めて、私が人間と付き合ってることを知っちゃったの」
 聞きたくない。聞くな。心のどこかで警報が鳴ったが、俺の手は耳をふさぐことは無く。俺の足はそこから逃げることは無く。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ずっと騙しててごめんなさい」
 黒須さんが泣いている。俺は、彼女の涙を止めるにはなんと言えばいいのだろうと考えていた。言葉は、出なかった。
 彼女が、ぴょんと飛び跳ねた。
 次の瞬間、彼女の姿は無く。駅から飛び去る黒い影だけが空に浮かんでいた。


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