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ようヒーロー

 こんな日は意味もなく心が弾む。そんな冬の真っ青な空の下での出来事だ。あなただってこんな晴れの日はウキウキするだろう?
 一人道を歩く青年の行く手から、息を弾ませてコートの男が駆けて来る。
 やってきた男は軽く手を上げて言った。
「よお正義のヒーロー!」
 青年には、まったく訳が分からない。

 訳が分からないは読んでいるあなたも同じであろうから、ご説明しておこう。
 ここはあなたの住む場所から、そんなに―――地球規模的に言えば―――離れていない場所だ。もしかすると、あなたの住んでいる場所からそう離れた所ではないかもしれない。
 何処にでもあるような、街と街の間にある少し寂しいアスファルトの道。
 制服姿の、ちょうど学校から帰宅途中だったであろう青年は、見知らぬ男に風変わりな挨拶をかけられて軽度の混乱に陥っていたのだった。
「……俺ですか?」
「あんた以外に誰がいるってのさ。もしかしてあんたが幽霊の見える霊能力探偵ってんなら話は別だが、少なくともオレにはあんたしか居ないと思うよ」
 いちいち確認しなければよかったと青年は内心頭を抱えた。聞こえなかった素振りのまま立ち去ってしまうのが正解だったに違いない。
「宗教とかには興味ありません」
「そりゃそうだろうな。真のヒーローは宗教の枠を超えて正義でなければならないからね」
 どうしよう。ヘンなのに捕まった。
 まだ空は青いといえども、寂しい道には二人以外の誰も居ない。帰り道の前に塞がる謎の男。
 もしあなたがどんなに図太くたって、こんな状況に置かれたら少なかれ困惑するだろう?
 この話の主人公、小金 誠司<だってそれは同じだったんだ。

 小金は改めて男を見た。
 人を観察する時、まず初めに見るところは何処だろう? それは顔だ。
 だけれども、このとき小金の注意は男の服装へ初めに向けられた。
 黒ずくめ、ならばまだマシだったろうか。カラスのような黒い髪に黒一色のロングコートだが、ボタンが外された胸元からは真っ赤な下地が覗いていた。これがまた毒々しい紅色だった。
 あなただったらどうする? 一人の時にこんな男から声を掛けられて。
 もしも男の後ろに黒いベンツが控えていたら、小金は回れ右して一目散に逃げたかもしれない。
「いやいや、あんまり警戒すんなって」
 口調からは男には若い印象があった。顔付きから判断しても、高校生である小金よりは年上であろうけども、おそらく三十路には行っていまい。その間ならば何歳と言っても通じるようなそんな男だった。
 あごの無精ひげを撫でながら男は続ける。
「オレはさ、あれよあれ」
 小金が警戒をしていなかったら、そのときの目元はむしろ愛嬌を感じたほどかもしれない。
「悪の秘密組織の、戦闘員って奴さ」
 ニィっと人付きのする笑顔を、しかし小金は見る事はなかった。
 何故って? 決まってるだろう。
 回れ右して一目散に逃げたからさ。

 走る小金誠司はきっと思ったかもしれない。何で俺が、と。
 毎日の平凡な一コマに、あんな怪しげな男が闖入して来たのだからそれは仕方が無い。
 或いは、そうは思わなかったかもしれない。
 一心不乱に走って、ともかく人のいる場所へ行って安心できればよかった、ととることも出来る。
 だが残念な事に、逃げるという行動によって彼が得るはずだった望む結果はあっけなく阻まれてしまった。
「よお正義の味方。らしくないな。男は敵に背中を見せてはいけない、だろ?」
 先ほどの男が、再び彼の前に立ちふさがった事で。

 また“もしも”話で申し訳ないことを承知して語ろう。
 もしあなたが脅威から逃げて、逃げた先に同じ脅威が立ちふさがったら。あなたならどうする?
 切り替えしてまた逃げるか。或いは恐怖に身を竦ませるか。追い越されていないはずのに前にいるという不思議な現象に頭を悩ませるなんていう思考派もいる事だろう。
 だが小金はどれでもなかった。走る勢いで、そのまま男を殴りつけたのだ。
 これにはコートの男も予想出来なかったようで、体重の乗ったコブシをよける事は出来なかった。咄嗟に顔を庇う為にでた両手でガードを作り、それを受け止める。
 言っておこう。
 小金は平和に慣れた一般的な高校生だ。
 そんな彼が格闘の型や体力学理念を知るはずもなく、黒コートの男は少しよろめいただけで小金の突き出された腕を掴んだ。
「はなせよ!」
「あんたの名前は?」
「なんで―――」
 なんでそんなことを言わなきゃならない。恐らく彼はそんな事を言いかけたのだろう。
 だがその言葉が最後まで出る事は許されなかった。途中で男が突き出したもう一方のコブシが、小金の頬を力いっぱい殴ったからだ。握られたままの片腕を支点に、彼の身体がグルリと廻り地面に叩きつけられた。
 ものすごい衝撃を感じた事だろう。片手を捕まれていなかったら1,2メートルは飛んだかもしれない。
 喋りかけに頬を殴られ、口内が切れようだ。男もそれを意識して、わざわざ意味の無い質問をしてから殴ったのであろう。血に息を詰まらせ小金がむせる。これだけで彼の戦意はもう失われたようだった。
 男が舌打ちがした。
「本当に素人かよ。これじゃあ、まるで威張れねぇ」
 そう言うと男は不意に、握っていた手を離す。
 小金は荒い息をしながら、これから続くであろう不条理な暴力に怯え身をこわばらせていた。
 逃げるも何もない。身を竦ませる事が彼に出来る唯一の選択だった。唯一の選択とは我ながら面白い言葉だ。身に覚えのない不条理を表すのにコレほどよい表現もなかなかない。無力な彼はたった一つの選択を甘受する以外どうする事も出来ないのだ。
「なああんた」
 男が屈んで小金と視線を合わせた。
「あんたは正義のヒーローかい?」
 ちがう。そう答えたつもりだろうが、小金の唇は震えたように動いただけだった。口に血の溜まった状態で話すことなど無理な相談だ。
 だが、黒コートの男はそれで理解したらしい。「そうかい」と一言おいて立ち上がった。
「悪いな兄ちゃん、人違いだったみたいだ」
 そして去りながら男は再び足を止めた。
「あれだ、運が悪かっただけだ。別に警察に言おうがどうしようが、もうあんたに手出しはしない。ちょっとした偶然が馬鹿みたく積み重なって、何億万分の一くらいの確率でたまたまあんたの所に雪崩落ちてきた。そんな不幸が起きただけだ。もう二度と会う事はないだろうよ」
 それから男は一度黙った。それはコレから言おうとする事を口にするかしないかで逡巡しているようでもあった。
「すまなかったな」
 そう言った時の男の顔を小金は見てはいなかった。
 倒された時の体勢から固まったまま、ずっと視線を男の足に向けていたから。あの硬そうな黒い革靴で蹴られるかもしれない。懸念する彼は、男の独り言をどれだけ聞いたいただろうか。
 ようやく男の足が視界から消えてから、彼は息を吐く様にしてあお向けに転がった。
 身体中の痛みが退いていくのを待つ短い間、海のように青い空を見上げる。そしてすぐにノロノロと立ち上がると、たどたどしい足取りで帰路へと就くのだった。


 この後、暴漢の噂が囁かれ、警察の巡回が多少増えたようだったが、何事もなく季節は冬から春へ、そして夏、秋と移り変わっていた。
 さてあなたに問おう。またかと溜め息をつかないでくれ。
 もしもあなたが帰り道に暴漢に襲われたら、その後の生活がどんな風に変わるか創造した事はあるかな?
 治療が終われば何事もなかったように生活を戻せるのならば、それはよっぽど強い人間だ。
 傷は目に見えない深いところにまで届く。一度知ってしまえば滅多な事では忘れられない事もある。
 『不幸』が確実にあって、それが何処にでも―――もちろん自分のすぐ傍にもあることを知ってしまえば、人はそれを意識せざるえない。
 怯えは心の奥底にへばりつき、全ての場所を人を、恐怖の対象にしうる。
 恐怖は心を圧迫し、少なからずその人を変えてしまう力をもつ。
 それが引き篭もりとして、もしくは自分より弱い物に対しての暴力として発現するかもしれない。ただ単に暗い性格になったり、逆に不自然なほどに明るくなったりするかもしれない。どう変わるのかは人によりけりであろう。ただ言えるのは、不幸は多少なりとも変化の引き金になってしまうという事だ。
 小金はあれから格闘系のジムに通っている。
 それがどんな心の変質から引き起こされた物なのかは他人に推し量る事は出来ない。事実、学校や家庭では彼は相変わらずの普通の青年のままだ。
 生活も周期的にジムに通っているという以外では元に戻り、事件初めは登下校時に一緒に帰ろうという友人たちの気遣いも時と共に自然消滅していた。
 そして今日も、小金誠一はあの道を歩いている。
 秋晴れの空は一面の青。あの日と同じような、思わず足が弾むような天気だ。
 ふと小金は足を止めた。
 こんな晴れの日にこの道を通るといつもあの日のことを思い出してしまうのだ。不思議なもので、逆に曇りだったり雨だったりと暗くて見渡しの悪い日ならば、何の気兼ねなくここを通れる。
「トラウマ、って奴なんだよなぁ」
 声を出したのは、きっと威勢立たせるためだ。
 二、三回首を降ってから、色づき始めた木々を尻目に、彼は真っ直ぐ伸びる道を、普通に歩いた。

 さて、こんな風に物語の序曲は幕を閉じる。そして序曲が終われば次の舞台が始まるのだ。
 そう。小金誠一は不幸にも、あの男と再び出くわす事となる。


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